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金沢と前田家

初代編

前田利家とまつ

NHKで大河ドラマとなった人物です。この二人が居なければ、今の金沢は存在しませんでした。天正三年(1575)に越前府中に三万石を拝領したのが加賀藩の基礎となった始まりです。北陸地方の将としてある任務がありました。この地は一向宗門が統治する一向一揆の本拠地だったのです。そう、一向一揆の沈静化・弾圧です。「加賀百万石」と呼ばれる以前は、それには似付かない様な土地だったのです。加賀弾圧に恨みを抱いて服従しようとしない住民達に対して、利家は苦労を強いられながら、加賀百万石の歴史の基礎を築いたのです。「加賀百万石」と呼ばれる加賀前田藩の祖。「利家」とその正室「まつ」。この二名を置いて、金沢の歴史は語れません。





金沢のイメージ

前田利家

前田利家自画像前田利家イメージ画像
人柄について:1539年1月15日に尾張国(愛知県)に生れ、幼名が犬千代であった事は有名。織田信長の部下として活躍。外見は細身で、信長に寵愛された程の美貌の持ち主で、小姓として美男子としての役目を担っておりました(歴史資料に記載)。身長は180㎝を超える大男(当時の平均は、157㎝程度)であり、朱槍(6m30㎝)を持つと最強「槍の又左」と呼ばれる程の豪傑。若い頃は信長に憧れ、同じように喧嘩好き・派手好きの傾奇者であったとされています(自身の談もあり)。そして、数学にめっぽう強い。ソロバンを常に持ち歩き、計算が得意であったとされます。

経歴について:その様な利家でしたが、後半は「柴田勝家(お市の最後の夫)」の部下として活躍。そして秀吉との戦いの時に親友である秀吉に下り、ナンバー2に昇格。そのまま北陸に留まり、金沢御坊(尾張御坊とも)に本格的な拠点・城を建設。大きな城下町を築き始めたのです。そして今の金沢城になるのです。そのまま前田家は加賀を中心に勢力を伸ばし最後は、豊臣秀吉の五大老の筆頭(表向きは、徳川家康ですが)まで昇りつめ加賀前田藩の祖となります。その力は強大であり、利家が死去するまで徳川家康は天下取りに着手出来なかったほどである。
(雑談:利家はキリシタン大名でした、多分。その為に尾山神社は、カラフルなステンドグラスで彩られているのでしょうか?またあの有名な傾奇者「前田慶次」とは大変仲が悪く、なぜか慶次だけ傾奇者に。似た者同士でしたから。)

まつ

前田まつ自画像前田まつイメージ画像
人柄について:1547年7月25日に尾張国(愛知県)に生れ、女性でありながら学問・武芸に通じており、「内助の功」の代名詞として名が上がる程に有名な良妻賢母。ドラマになるほどの方です。男性中心であった戦国時代の資料に掲載されていると言う事は、歴史以上の方だった事は間違いありません。また、北政所(秀吉の正室)と大変仲が良く、自分の娘・豪姫を養子に送るなどの交友があり、秀吉からも相当な好待遇であった事から、人柄がうかがい知れます。

経歴について:従兄妹関係である、利家と12歳で結婚。2男9女の計11子を産む。凄いのは、その頭脳である。柴田勝家の部下であった時・利家と秀吉が政治的な問題で喧嘩をした時、これらの危機には必ず北政所(秀吉の正室)に赴き、夫の立場を覆させた経歴を持つ。晩年もまた凄い経歴を持つ方で、まず利家の死に際には経帷子を手縫いしたり、没後は芳春院となり前田家存続の為「母を捨てよ」の言葉と共に、徳川家に人質に赴くなどの武勇伝を多く持つ事が有名です。


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