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金沢と前田家

3代・5代藩主編

3代藩主前田利常と5代の綱紀

加賀前田藩を発展させた、名藩主です。この2名を語らずして、金沢の歴史は語れません。戦国時代の様な派手な経歴ではありませんが、「加賀百万石」と呼ばれる程の繁栄と名実を創った人物です。前田利家から始まった、加賀藩。その加賀藩を「加賀百万石」と呼ばれる程に押し上げた立役者を紹介します。



金沢のイメージ

前田利常

前田利常自画像前田利常イメージ画像
加賀前田藩の3代藩主です。藩の地盤を完全に確立した人物であり、またの名を通称「バカ殿」と呼ばれ、「バカ殿」を演じた藩主です。

「バカ殿」を演じた理由:外様大名の中で、ダントツの石高(勢力)を誇っていた加賀前田藩(総石高は119万石!!)。徳川家がほおっておく訳がありません。何だかんだ理由をこじ付けて、「謀反の疑惑有り」と言う事で利常を江戸に呼び出し、詰問したのです。これを難なく乗り切った利常は、すぐ行動に出たのです。「バカ殿」作戦。江戸の屋敷に閉じこもり、芸者遊び・贅沢三昧・酒に溺れる等により、藩の財政を食い潰し始めたのです、徹底的に。その結果「あいつはバカだ」「加賀藩は終わりだ」と周りから言われるようになり結果、謀反の嫌疑は一切無くなったのです。ではなぜ演じたと思うか?重臣や家臣は誰一人として離れなかったんです。これが事実でしょう。実際、周りから「バカだあいつ」と言われてもヘラヘラ笑える程の器量と度量を持っていた証拠でもあるのです。武士にとって、「侮辱は死より屈辱」。凄い藩主です。

「加賀前田藩」の基礎作り:加賀藩を守った利常は、約50年(隠居後も政権を持つ)余りにわたっての政権を担当しましまた。その特徴として、「武」ではなく「文」に力を注いだ事です。文学・芸術・工芸等の文化国家を目指し、他方から芸術家を招いて芸術文化の都としたのです。それこそが「加賀百万石」の基礎となった考えだったのです。推測でしかありませんが、文学に力・財力を注ぐ事により、徳川家の目を欺く事が出来ると考えたのでしょう。国力=文化として「加賀百万石」の名を作り、「武」のイメージではなく「文」のイメージに切り替えた。それしか江戸幕府の下で、加賀前田藩が残る道は無かったのでしょう。皮肉ですね。。。

前田綱紀

前田綱紀自画像前田綱紀イメージ画像
加賀前田藩の5代藩主です。「加賀百万石」を花開かせた人物です。様々な芸術家・学者を金沢に招き入れ、古典の収集や編集を行った事が知られています。

2人目の後見人:利常が亡くなった後に、後見人となったのが岳父である「保科正之」(家光が最も信頼した人物であり、初代会津藩主。名君として有名な偉人)でした。そう、綱紀は徳川家と縁血関係であり、綱紀は彼を後見人として加賀藩の改革を実施していきます(ちなみに綱紀の正室は、保科正之の娘です)。「十村制度(問題もありましたが)の再整備」「細工所」を設け、農耕・芸術の両方に力を注ぎ、藩の基盤を確立したのです。その背景として、やはり当時の一向衆の存在・100万石という大き過ぎる国家維持の為、改革をせざるを得なかったのです。その結果藩の財政は安定化し、江戸前期の三大名君の一人に数えられる程になったのです。

「加賀百万石」文化:今もなお残る、加賀百万石文化。その文化は5代綱紀の時に見事に花開きました。加賀の美術工芸「大樋焼」「九谷焼」「加賀蒔絵」「輪島塗り」、「能楽(宝生流)」「茶の湯」も栄えました。特に能楽は加賀宝生として、綱紀の奨励を受けて茶の湯文化とともに発展しました。「加賀百万石」の文化は、こうして綱紀の奨励によって大いに花開いたのです。ただ一方で、見えない隠された金沢の歴史があるのも事実です。何かを得るには何かを捨て無ければいけません。つらい時代でもあったのです。


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